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■2002年東ティモール大統領選挙

東ティモール

渡邉公則(映像作家)

僕は、かねてから一度、留学というものを経験してみたいと思ってきた。自分の生まれ故郷を離れ、見知らぬ土地で暮らす。東京で生まれ東京で育った僕にとって、生まれ育った土地を離れ外国で暮らすということは憧れであった。留学した友人のおみやげ話は、とても羨ましく聴いたものだ。けれど、僕が赤道直下のコーヒーの国で出会った人々の留学は、そんなちょとしたボヘミアンなニュアンスの留学とはまったく異なったものだった。

そのコーヒーの国の名は、東ティモールという。1999年に行われたインドネシアからの独立を問う住民投票をめぐり、インドネシア軍に操られた民兵によって街は破壊され、人々は殺されていった。当時、国際社会に強いインパクトを与えた、この東ティモールでの悲劇は日本でも大々的に報道され、国際記事が少ない日本の新聞においても連日一面トップを占めていた。東ティモールの人々はこの騒乱から逃げるため、生まれ育った土地を捨て、西ティモールへ逃げ込んだのである。そこにあるのは、希望や旅情ではなく、絶望と非情しかなかったはずだ。

その後、東ティモールが安定するにしたがって難民の多くは帰還した。だが、まだ数万人の難民が残っていると言われている。だが、これら現在でも帰還できないでいる難民の多くは、住民投票当時は親インドネシア派として破壊行為に加担をしていたと言われている。そのため、たとえ東ティモールに戻ることが出来たとしても、コミュニティーの人々は彼らを受け入れてくれないのである。

僕が西ティモールのアタンブアにある難民キャンプで会った人々は、そんな過去を持つ人々だった。「生まれ育った土地を離れて暮らす」。平和な国・日本では、むしろ憧れですらあるそんな生活だが、この難民キャンプの人々にとってはただの絶望でしかない。僕は、現地の人の力を借りて、難民キャンプというものに生まれて初めて入った。家々には屋根こそあるが、道は糞尿で汚れ、子供たちは素足でその上を飛び跳ねていた。そんな難民キャンプの人々は、僕を救世主のように扱った。

「お前は、日本人か?」

何度もこの言葉を難民から投げかけられた。この絶望のキャンプでは、僕が日本人であること、それ自体が意味のあることなのだ。

「そうだよ、日本人だ。他に外国人や援助団体は来ないの?」

「みんな、いなくなったよ。」

アフガニスタン難民は「忘れられた難民」と言われている。しかし、東ティモール難民は、「見捨てられた難民」なのかも知れない。

難民キャンプからの帰り際、子供をもつ女性が僕のことを最後の最後まで見送ってきた。体は貧弱で身なりはみすぼらしかったが、その目の力はとても力強かった。

「何とかして私たちのことを外国に伝えてほしい。」

ビデオカメラを持つ僕に、彼女はその強い眼差しでそう語っているように感じられた。僕は、この瞳を今でも忘れることが出来ないでいる。

いま、僕は映像というメディアをもう一度捉えなおそうと試みている。現在の映像はさまざまな過剰な演出を施している。料理で言えば、調味料をたくさん使った中華料理だ。きらびやかだが、素材の味は完全に消えてしまっている。僕自身はそんな映像を自ら作り、また何の問題も感じずに見てきた。しかし、映像にとって一番大切なものは「カメラの前にあるものを映し、それを人に伝える」という、最も素朴な部分なのかもしれない。彼女の瞳は、そんな単純なことを僕に思い出させてくれたのだった。(終)

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