INTERBAND

For Peace-Building&Democratization


■2002年東ティモール大統領選挙

東ティモール、最初の大統領選挙監視団に参加して

折居徳正(前日本ゲートウェイ株式会社)

UNTAET後、そしてカトリシズム

東ティモール。それは私の記憶の底に、かつて見た一色刷りのパンフレットと共に残っていた。そのパンフレットはインドネシア占領下での弾圧に関する報告会の案内で、残虐行為を訴えていた。大学でキリスト教を中心とした宗教、及び東南アジア研究を専攻していた私にとって、この地域は常に興味を引き続けるものであった。国際協力マガジンに掲載されたインターバンドの選挙監視団への参加案内により、今回ついにその地をこの足で踏み、この目で見る機会を得た。現地に向かう前の私が持っていた問題意識は以下の2点である。 1)UNTAETの暫定統治の実際と、独立後に向けての準備状況 2)東ティモールにおけるカトリシズムの実態 1)については、昨年末に勤務していた外資系企業が日本市場から撤退することとなり、外注先に業務を引き継ぐのに苦労した個人的な経験も、少し背景にあったかと思う。しかしそれよりも、東ティモールではカンボジアや旧ユーゴと異なり土着の勢力による統治実績が皆無のところでUNが暫定統治を行い国家を立ち上げる作業を行っており、過去の権益が少ない分暫定統治は容易であったはずだが、独立後は実際にうまく動き出すものなのかについて、大きな興味を感じていた。さらにまた、国際的機関による暫定統治と民主化という手法が、第2次大戦後のドイツと日本に始まったと考えれば、日本の戦後史との比較においても興味を惹かれるものがあったと言える。2)については、以前に統計で東ティモールにおけるカトリックの年代別普及データを見ており、1974年にポルトガルが撤退した際には、山間部における普及率は微々たるもので、大部分の住民はインドネシア統治下においてカトリックに改宗したことに注目していた。これは教会が、インドネシアに対抗して唯一存在しえた全国組織であり、抵抗組織として機能、普及した可能性を予感させるものであった。その点では日本統治下の朝鮮半島のキリスト教と類比しうるかも知れず、さらに19世紀末のフィリピン革命においてキリスト教の「パッション(受難劇)」が思想的役割を果たしたように、ユダヤ・キリスト教の内包する解放志向が、精神的、思想的側面で何らかの役割を果たしたのかどうかについて、大きな興味を抱いていた。以上の2点について探りながら、以下時系列に沿って、紀行記風に1週間の選挙監視活動を記述してみたい。

ディリ

2002年4月8日、デンパサールを発ったメルパティ航空機は、右に大きく旋回して高度を急速に下げた。左の窓側の席に座った私の目には、遥かにキリスト像が臨まれる。飛行機より島を一望しての第一印象は「相当に山がちな国土である」ということであった。飛行機を降り、歩いて空港ビルへ。建物に入りきれず、炎天下で行列して入国審査を待つ間、この建物がシャナナ・グスマンによって寄贈されたことを碑文で知る。やっと辿り着いた入国審査官は東ティモール人と見られ、その仕事振りが初々しいのに独立の匂いが感じとられた。入国カードの各項目を鉛筆でチェックを入れながら確認し、パスポートの各スタンプも詳細に目を落とす几帳面ぶりであった。空港の建物を出て、前日にディリに入っていたメンバーと合流。ワゴンに乗って一路インペリアル・ゲストハウスに向かった。街の様子を眺めながら、ここがあの東ティモールなのかと感慨が浮かぶ。同乗した他のメンバーの話では、2001年8月の時点に比べて、倒壊した建物がかなり少なくなっているとのことであった。空港から宿への道すがら街を見た限りの私自身の印象は、南アジアの最貧国よりは、現状はましなのではないかということであった。ゲストハウス到着後、荷物を置いてすぐにUNTAET本部に向かい、EU監視団のブリーフィングに参加する。美しいレトリックを用いて「東チモール人と共にいる」ことを語ったという印象であったが、少なくとも各県に監視員を派遣している点は、距離的に近い日本よりも精緻な作業を行っていたと言える。ゲストハウスに戻りコーディネーターの説明を受けた後、ディリ市内で行われたシャナナ・グスマンの演説会へ。すでに数百人の聴衆が集まっていたが、PKOの要員が数人警備に来ており、自衛隊員も5−6人いた様子が目を引いた。ポスターを握り締め、一心に待つ少女の横顔を眺める内に、自分の内に大きな感動が込み上げて来た。ついに圧政から解放されようとしている人々、それを警護する各国のPKO要員、そしてその場にいることのできた自分。シャナナは一隊の支持者の群れと共に入場し、司会者がマイクで叫んだ。「ヴィーヴァ!シャナナ!」行列となって進む支持者の横を、ティモール産の小型の馬に乗り、民族衣装を来た男たちが駆け抜ける。シャナナは伝統衣装のタイスを首から下げ、当初は少し疲れた様子も見せたが、笑顔で人々の間を歩き演台へと向かう。その前を先導して、民族衣装を来た少女たちが、伝統楽器を打ち鳴らして歩く。シャナナの演説はテトゥン語で内容は把握できなかったが、「ティモール・ロロサエ」と母国の名を繰り返す声が耳に残った。静かに語り出し、段々と興が乗って盛り上がったところでスコールが来たため、やむなくその場を去ることになったが、実はこれが私の接した唯一の選挙運動であった。今回の大統領選においては、候補者のいない集会というものは行われておらず、2日後に移動するスアイには、当然ながらシャナナも対立候補のアマラオも来なかったためである。9日の午前中、自由時間ができたため、ディリのカテドラルを訪れた。ある程度予想はしていたが、扉が閉まっていて中には入れず、裏手に回ると隣の空き地にPKO部隊が駐留しているのが見えた。司祭が準備を行う香部屋の扉が開いていたため、管理人に声をかけて中に入れてもらい、聖堂内部を見学した。700-800人収容の聖堂であり、祭壇にはポルトガル語で復活節に関する言葉が飾られてあった。管理人の男性は英語を介さず、かなりこちらを警戒している風でもあったため、あまり話はできずに立ち去る。カトリック教会の聖堂は、昼間は開放しているところが多く、信徒が中で祈ることができる。ただ貧しい国々では平素は扉を閉じているところもあり、ディリの大聖堂ともう1つの教会はいずれも扉が閉まっていた。実はスアイでも2箇所の教会を見ることになり、こちらは中に入ることは自由であったが、平日から集まったり、祈ったりする様子はまったく見られなかった。事前に日本からエルメラ県に入っている神父の日記を読む限りでは、何もすることが無いのか平日から教会に人々が告解(罪の告白)に押しかけ、その数一日千人以上とのことであったが、少なくともディリとスアイではそのような状況には出くわさなかったと言える。午後、UNDPによる選挙監視団へのブリーフィングに出席。選挙というものを、もう一度最小要素に還元し、東ティモールの気候、歴史、民度を若干加味した上で、効率よく転がしているという印象であった。直感的にではあるが、この手法はアメリカ発のグローバル企業のビジネスと本質的に同じことをしているだけではないのかという感じを受ける。UN側の認識の枠組みに入るもののみ、既定の枠組みでだけ物事の認識が可能であり、東ティモール人の価値体系の中でそのことがどういう意味を持つのかについては、まったく未知の問題として残ってしまっているのではないかという印象が残った。また、一度選挙規定が定まってからシャナナ・グスマン候補が言い出した、投票用紙から政党のロゴをはずすべきだという主張も結局受け入れており、大変苦労をしていることは想像されるが、限られた時間と予算の中でとにかく民主的選挙の形を作って、あとは撤退するというやっつけ仕事の感も無きにしも非ずであった。10日はスアイへの移動の準備、虐殺事件のあったサンタ・クルス墓地を訪問。厳粛な感じを受ける場所であった。その後、ディリ郊外の岬に建つキリスト像を見学に行った。小高い丘になっており、麓から像まで上る過程に「十字架の道行き(キリストの受難の場面を順に黙想する伝統的な方法)」のためのレリーフが設置してあった。すれ違うのはジョギングに来たUNTAET職員ばかりであり、東ティモール人は我々の運転手以外一人もいない。インドネシア統治時代に建てられたものであり、スハルトが反対勢力を屈服させた後の観光化のために建てたと言われる通り、過去も現在も現地の東ティモール人の信仰生活とはほとんど関わりの無い場所のようであった。逆に99年の騒乱の際になぜ破壊されなかったのかと訝しく感じる。夕方、日本大使館を訪問。

山々を越えて

11日の朝、車2台でスアイに向けて出発した。比較的道がよいアイレウ県、アイナロ県を経由。道中は、山をひたすら登り、風光明媚で涼しい山間部を通り抜けた後、またひたすら下るというものであった。アイレウの辺りではとても美しい水田地帯を目にしたが、逆に言うとどの集落にも水田があるという訳では無いようであった。さらにこの道は、国連の介入以来幾多の外国人を載せた車が通っているはずであるが、それでも沿道ではこちらに向かって手を振る人が多かった。標高の高い地域は過ごしやすく、山がちなこの国が決して暑いだけの国ではないことを実感する。昼食のために立ち寄ったアイナロの町で、国連ボランティア(UNV)として地域選挙官(District Electoral Officer)をしている日本人の女性と出会った。この辺りでは、UNTAETは選挙が終わると同時に独立を待たずして引き上げるとのこと。業務の引継ぎ状況について尋ねると、すでに概ね東ティモール人が運営しているので、特に問題は無いとの答えであった。昼食、休憩をはさんで9時間のドライブの後、スアイに到着。想像していたよりも小さな集落であった。事前に配布されていた地図でも確認していたように、欧米のNGOの事務所等がすでにあり、またPKO部隊も多く展開していて、道中もネパール、ニュージーランドなどの駐屯地を目にした。また文民警察官としてアメリカの警官が多いのが、少し意外な感を抱かせた。スアイでは以前あるNGOが使用していた事務所兼宿泊所に滞在。近所の人の話では、電気は3日来て3日休み、水道は1日おきに午前中のみとのことであったが、電気については結局4泊のうち2日間、夜6時半から12時までのみ来たため、あとはロウソクでの生活となった。

投票センター巡り

12日選挙監視活動を開始。まず独立選挙委員会(IEC)の事務所を訪れ、投票センターの地図をコピーさせてもらう。そこでUNTAETで選挙登録官として働くUNVの日本人男性と会い、事務所での仕事を見学させてもらう。選挙は2日前に迫り、当日の業務はかなり楽な方であるとのことだったが、それでも10人ほどの人が登録を待って並んでいた。スタッフは日本人のUNVと東ティモール人が3人。登録はノートPCを使用して行っていたがまずこれが問題で、2001年の制憲議会選挙のソフトをそのまま使用しているため、2002という年自体がエラーとなり入力できず、その他のバグもかかえたまま使用しているとのことであった。また記録のためのCD-Rも質が悪くて書き込めないものが多く、書き込み失敗のものが山と積まれていた。最近ようやくSONY製のまとものなものになったそうである。またスタッフは英語をほとんど介さないがOSは英語のWindowsであり、そのことも操作を困難にしていた。確かに私がいる間にもエラーが出ていたが、当然ながらそのメッセージが何を意味するのか、実際に操作している東ティモール人スタッフにはわからない。スタッフの資質についても、一人のスタッフは英語ができるということで配属されたが、難しい話になるとまったくものの役には立たたないとこぼされていた。現在1人の住民の登録にかかる時間は、これでもだいぶ短縮されて5−6分とのことだったが、これでは1時間に10人、3人でやって30人ほどしか裁けず、一日200-300人程度とあまり能率は上がっていない。その登録官の方であれば、一人で一日400人は裁けるそうである。今までに各村を登録のために一通り巡回したそうだが、登録の多寡についてはその村の村長の意欲によってばらつきが見られるとのことであった。またUNHCR、PKO部隊、インドネシア国軍の話し合いにより国境地帯から難民が帰還してくるがその登録にも苦労しており、その週も700人が帰還するという情報があったため4人のスタッフではさばき切れないことが予想され、アイナロから応援を呼んでおいたのに、実際に入ってきたのは十数人であったそうである。選挙当日も帰還する情報があり交渉の最中であったが、UNHCRとPKO司令部を相手に選挙登録局などの意見は中々通らないとのことで、苦労されているようであった。UNTAETが撤退した後について尋ねて見たたが、そこまでは知りませんと即座に言われてしまった。現在は24時間自家発電で供給されている電気が来なくなるがどうするのかとも尋ねたが、そこまでの対策は考えられていないようで、電気が無ければPCは使えない以上、紙ベースで行う事務処理方法を一から作り直すしか無いであろうと思われた。そしてこの部署を見る限りでは、UNTAET撤退後への配慮等はなされておらず、手本を見せたから後は一から自分たちで作るようにという感じであったと思う。今回の選挙が、PKOや文民警察による治安維持に加え、電気、PC、移動手段としての車などUNTAETが持ち込み維持したインフラによって迅速な実行が可能になっているものであることを痛感し、次回選挙の多難さを思ったが、逆に言うと次回は、電気の無いところで紙で事務を行い、身の丈にあった選挙が行われるはずだとも言えるだろう。その後2チームに分かれ、私のチームは選挙センターの場所の確認に回ることとなった。市の中心部カテドラル脇のセンターから、ディリよりの移動中に通過したアイナロ県に向かう道路沿いの9つのセンターを回る。選挙2日前であり、センターとなる各小学校では、、午前中に地域選挙官(DEO)がスタッフへのトレーニングを行っていた。DEOは事前のIECの説明通り、半数がUNVの外国人、半数が東ティモール人となっており、投票所で合うことの出来た人とはそれぞれ挨拶を済ませ、進行状況等について聞いた。9つのセンターの内、若干の問題を感じたのは午後に訪問した内の2箇所。1つはマウコラ(Maucola)という廃校となった小学校で、幹線道路から学校までの道が田んぼのようにぬかるんでいて、ここに並んで待つのはつらいのではという状況であった。もう1つはハレカイン(Harekain)というこちらも廃校となった小学校で、投票所となる教室にPKOのネパール部隊が駐留して住み込んでいる様子であった。午後の到着ですでにIECのスタッフもいなかったため、ネパール兵に対して、その場に留まっている理由、また選挙当日はどうするのかについて尋ねるが、まともに答える気が無いらしく「イエス、イエス」と繰り返すばかりで埒が明かなかった。13日の午前中に時間があったため上記2箇所を再訪し、いずれも東ティモール人のDEOに通訳を介して話を聞いた。マウコラの男性DEOの話では、ぬかるみについては自然のわざでありどうしようもないとの答えであった。またハレカインの女性DEOと話すと、兵士がいることは住民に安心感を与えるために必要なことであり、他の投票所でも兵隊が警備をしているという回答であった。実際は、他の投票所でPKO部隊が警備をしていることはあまり無く、さらに投票日も半径100M以内への進入は禁止されている。その日の午前中の段階でもネパール部隊は一つ隣の教室に移動して駐留を続けており、その教室は選挙の準備ができていない状態であった。さて、話は12日に戻るが、ズュマライ(Zumalai)という投票センターでは、教会の敷地内に小学校があり、すでにIECのスタッフがいなかったため、教会にいた男性に話を聞いて見た。東ティモール人運転手に後から聞くと、その人がその教会の司祭ではなかったかと言う。選挙について尋ねた後、教会についても尋ねて見ると、この教会は12,000人ほどの信徒を抱えており、司祭は東ティモール人2人とインドネシア人1人だが、内1人は今休暇でイギリスに行っているとのことだった。この比率は、エルメラに入った神父の教区とも大体一致するが、6000人に1人という数字は通常と比べると極端に司祭が少ない状態である。さらにその後スアイのカテドラルにも言ってみると、99年の騒乱時に発生した虐殺の記念碑が建っており、聖堂内にも虐殺の場所を示す記述と、恐らくはテトゥン語で「平和を求める祈り」が掲げてあった。ここでの虐殺では司祭も殺されたとのことだったが、殺すに値したということは、住民の側に立った活動をしていたということであろうと推察される。ただ突然の訪問であり、特に関係者の話等は聞けなかった。以上2箇所とも平日であり特に教会での活動等は行われておらず、中で祈る人も見られず、閑散としたものであった。さて、我々のチームが宿舎に戻り、国境地帯での難民帰還の様子を確認に行ったチームが遅くに戻ってくると、タイヤのパンクで岩にぶつかるという事故を起こしていた。近くに駐屯していたPKOの自衛隊部隊を緊急に訪問し、検査と治療を依頼、幸い大事には至らなかった。ただ、山間部の国境への道は、通常の車両では通行不能とわかり、投票日に難民が帰還してきた場合の監視などのプロジェクトは、続行不能となった。

自衛隊部隊の訪問

13日の夕方には自衛隊駐屯地を訪問。中隊長自らの案内で各設備を見学した後、広報担当の三佐も交えての夕食をご馳走になった。まだプレハブや厨房を建てる前のテント暮らしの段階で、料理車にての料理であったが、思いのほか美味しいものであった。水については、パキスタン部隊が汲み上げて浄水したものを、日本の基準に合わせるためさらに殺菌して風呂に使っているとのことだったが、それでも念のためにその水を飲むことはせず、配給されるボトル・ウォーターを飲んでいるとのことであった。我々の宿舎の水道から出た濁った水を見たらさぞや驚くだろうと思われた。他にも予防注射を何もしていないことについて、無防備だと驚いていた。またPKO部隊の司令官の方針で、スアイでは休日を含めてアルコールは一切飲めないとのことであった。半年ずつ4つの部隊が交代で任務に当たるそうであるが、国家公務員を派遣し、長期に渡る滞在で力仕事や工事車両の操作等の業務を行うためには、このくらいの装備と準備は必要であろうと言うのが率直な感想であった。少し意外で驚いたのは、新聞やビデオ等の情報は、日常的には入ってこないとのことであった。インターネットは見られるとのことであったが、これでは日本に帰ったときに浦島太郎にならないかと思う。また、工事用の車両はすべて今回の業務のために新たに購入したもので、撤退後はすべて東ティモール政府に寄付されるとのことであった。作業については、前任のパキスタン部隊の仕事を引継ぎ、改めて日本式の測量を行った上で作業に取り掛かるとのこと。さらに車両の操作は隊員が行うが、土運び等の単純作業については、UNTAETを通して現地人を雇うとのことであった。ひとつ興味深かったエピソードは、第2次大戦中の日本軍から習ったと思われる日本語を覚えている老婆が現れ、「タイチョウサン、ニワトリアゲル」とニワトリを置いていったとのことである。しかし私にとってより印象的だったことは、今回自衛隊が旧日本軍の戦闘を行った地域に始めて派遣されているにも関わらず、それに対する感慨等がほとんど無いように感じられたことであり(敢えてそう振舞ったとはどうも思われない)、旧軍と自衛隊がまったくと言ってよい別組織であることを改めて痛感した。帰りはPKO司令部に戻る三佐に車で送ってもらったが、そのクッションの柔らかいことと、運転の丁寧なことに驚き、東ティモール人の運転の荒っぽさに始めて気がついたのであった。

投票日

14日の投票そのものについては、大過なく終わったと言える。7時の投票開始時には、100人程度の若干の行列はあり、その後もしばらくは行列があったものの、11時を過ぎるとどこの投票センターでも、投票者はごく稀となった。暑い国の例に漏れず、日差しの強い日中を避け、午前中と夕方に活動をする行動パターンが投票行動にも出ているのであろうか。ズュマライでも、予想通り7時からのミサの終了後に投票者が集中したとのことだったが、10時半に到着した際にはすでに閑散としていた。ぬかるみのマウコラでも、市街から遠かったため到着した際には投票者の姿はなく、投票者たちが実際に難儀していたのかどうかは確認できなかった。ハレカインのネパール兵たちは流石に移動しており、警備のマレーシアの文民警察官に聞くと、朝早くに移動して行ったとのこと。周囲をよく見ると、丘の上に人影があり、双眼鏡でこちらを監視していたため、あれがネパール兵ではなかったかと思われる。ネパールの部隊については、住民に溶け込んで交流しながら駐屯している様は見られたが、我々のような民間人に対する説明という意識がまったく無いのではないかと強く感じられた。なおカマナサ(Camanassa)というセンターでは、投票箱を封印するストラップが固定されておらず、投票箱係と外国人のDEOに聞くと壊れているとの回答であった。結局他のメンバーが反対に止めてしまっていることを示し、正常に封印作業を行うよう導いた。その他の監視団としては、ポルトガル、カーター・センター、EUに加え、現地東ティモールの監視団も積極的に活動を行っている様が見られ、主体は学生とおぼしき若者たちであった。また政党の代理人もフレティリンとシャナナ支持者の双方が、多くのセンターで見られた。

ディリへ、そして日本へ

15日の朝、スアイを発ち、ディリへと戻った。その前日にディリから連れて行った運転手から聞いた話であるが、ガイドとしてディリから連れて行ったスアイ出身の若者は、99年当時はミリシアに参加していたとのことであった。彼はスアイに行ってから町の人にそのことを知らされ、少しあきれ、恐がっていた様子であった。その運転手自身は、奥さんがオーストラリアの市民権を持っていたため、騒乱時代はオーストラリアにいたとのことだが、サンタ・クルス事件の際は、その場にいたという。またもう一人の運転手は、ディリでは少し名の知れたサッカー選手であった。帰る間際になって、多彩な背景を持った人たちと一緒に旅をしていたことを思う。その運転手(実はオーストラリア企業の社員)は国の将来について、今人々は貧しいが、ティモール海の石油が取れるようになれば何とかなるだろうと述べていた。ただ彼には言わなかったが、貧しいといっても世界にはこれよりも貧しい暮らしをしている地域は数多くあると思われ、その意味では弱肉強食の国際社会に船出する東ティモールに、国際社会の目がいつまでも注がれるとは限らない。そしてまたティモール海からの産油が順調に行ったとしても、まだ財政は赤字となることはすでに予測済みなのである。彼も5年10年は時間が必要だとは言っていたが、どこまで人々が待てるか、そして新政府がどれだけ効率よくクリーンに実務をこなせるかに将来が大きくかかっていると感じる。16日午前、ディリ市内の開票所を訪問。この時点でディリ選挙区でのシャナナの得票率は80%強と見られ、以外に低いとの印象を受ける。この傾向はディリ市内のみで地方ではシャナナがもっと取るかと想像していたが、帰国して知った全国の結果も、ほぼ同様のものであった。新聞報道の表現を使えば、フレティリンは「フランス型」の大統領制を目指した憲法を制定しており、その意味では独立後の政界は「コアビタシオン」となるわけだが、80%強という得票率は、シャナナが圧倒的なイニシアチブを取るには少し低いのかも知れない。また、一体どこまで法律に完全に基づいて統治が行われるのかに今ひとつの不安が残る。「フランス型」と言っても、要はシャナナ・グスマン一人に権力を集中させたくないという、制度の問題よりも個々人の人間関係の問題を中心に動いていると思われ、シャナナの方も、憲法は後で改正すればよいというような発言をしていると報道された。今回の選挙においても、すべての規定が決定された後で投票用紙から政党のロゴをはずすように求めてはずさせた経緯もあり、シャナナ・グスマンという人物がどこまで法治を行う人であるのか一抹の疑問を感じている。あるいは逆に、法治を行う人であるが故に、現憲法下では権限が制限され、それが故に真に国のためになる決定が下せない場面が出てくる可能性は無いのか。大日本帝国憲法を作りはしたが実は元老と明治天皇の個人的信頼関係で国が動いており、元老亡き後政府と軍部との調整が不可能になった明治国家を思いつつ、今後の展開に注目して行きたいと思う。投票センターの監視後、空港に向かい、エメラルドの海に輝く宝石のようなこの島をあとにした。最初に提示した2つの問題意識について言えば、選挙監視を主目的とした1週間ほどの滞在では取っ掛かりを掴んだに過ぎないというのが偽らざるところである。国連は、暫定統治が比較的容易であったからこそ、逆に独立後への引継ぎを確実に行い、その後もしばらくは新政府を支えることをするべきであると思う。その意味では、PKOや文民警察官が当面は残って活動をすることに、大きな意味を見ている。カトリシズムについては、より曖昧な感触しか得ることはできなかった。ただ、憲法前文においても「外国支配に対する抵抗において果たした役割」が謳われたカトリック教会が、今後新政府に対しても時に批判的なスタンスを取り得るのかは、政治的にも興味を惹かれるところである。そしてまた、スアイへの移動中に見た山々に住む人々が、インドネシア統治下の極限的状況で、数少ない司祭から得た情報で信ずるに至ったその信仰とは一体何であるのか、今後も何らかの形で追及して行きたいと考えている。外部との接触の少なかったこの地域の人々はまだまだ素朴で、自然は美しい。大規模開発も、繁華街も、リゾートも無い代わりに、汚染も、スラムも、売春婦も無いこの島が、どのような国になっていくのか、21世紀における新たな試みとして今後も注目したい。

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